会津小鉄


 会津小鉄は幕末期から明治時代前半にかけ、京都を中心に関西で勢力を振るった博徒の大親分である。現在、新聞やテレビなどに登場する度合いからいえば、この名前の下に「会」をつけた集団のほうが圧倒的に頻度が高いが、暴力団の会津小鉄会にしても、会津小鉄の名跡を嗣ぐ形で興された組織ということになっていて、全くの無関係というわけではない。
 さて会津小鉄会は措くとして、会津小鉄とはどのような人物だったのか。知られているエピソードを継ぎ合わせる形で描かれたその人生はおおよそ以下のようなものだろう。
 出自来歴不詳。幕末の動乱期、京都に現れて賭場に出入りする。会津の松平容保が京都守護職として黒谷に本陣を構えると、その中間部屋に住み込み、力にものを言わせては次第に頭角を現し、多くの手下を従えるようになる。会津部屋の小鉄という評判が立ち始めたのも、そのころのことらしい。京都に戦火が及んだ禁門の変や鳥羽伏見の戦いでは会津軍に従って戦場にも赴く。会津軍敗走後には会津兵の遺体を黒谷に運んで埋葬したことで世人の賞賛を得るも、明治時代になってからは、多くの賭場の元締めとして知られたほか、派手な私闘を引き起こして投獄されることもあった。明治十九(1886)年、北白川の邸宅にて没。
 黒谷に残る会津墓地は小鉄が運んだ会津兵の遺体を埋葬したものであり、会津墓地の近くにある西雲院の境内には会津小鉄の墓も建てられている。



鏡のウラオモテ

 草莽の徒の人生は知り得ない、というのは歴史叙述一般の法則かもしれない。しかし時代を彩った大立て者となると、賞賛と誹謗の両面から、さまざまなエピソードが語られる。会津小鉄の場合、清水の次郎長や国定忠次といった大親分と同じく、多分に伝説色の強いものとなっている。確かに多くのエピソードがあるわりには、信憑性のある史料は伴っていないのである。『国史大事典』にも項目として挙がっているが、会津小鉄の行跡を辿るうえで、最もまとまった記述を提供しているのは、民衆史家田村栄太郎の著作だろう。昭和八(1933)年に上梓された『一揆・雲助・博徒』の中にその人生が触れられており、同書の内容を大幅にリライトした形で『やくざの生活』【昭和三十九(1964)年】でも紙幅を割いて会津小鉄の紹介がなされている。ただ惜しむらくはマイナスの側面が強調されすぎている点である。扱う対象が博徒である以上、マイナスの叙述が目立つのは致し方ないし、それを殊更に正確でないと言い切ることもできない。しかし井上馨を「黄金魔」と形容したり、藤田伝三郎を「嘘で固めた男」とするなど、ゴシップライター的な筆致が目立ちすぎる。さらに面白いことに、会津小鉄のエピソードのなかで、おそらく不可欠と思われる会津墓地の件についてはひと言も触れていないのである。会津小鉄の概要を知るうえでは貴重な本には違いないが、全面的に信用するわけにはいかないのである。
 一方、肯定的に会津小鉄を捉える記述についても、同じことは言える。もっとも肯定的にその人生をまとめているのは、会津小鉄之墓の前にある顕彰の文言だろう。顕彰という性格に加えて記述者が当人の孫ということもあり、肯定的記述に一貫している。木板に書かれた文言は昭和六十三年のものであり、十年そこそこの年月が経っただけなのだが、判読に窮する部分も多くなっている。この先、完全に判読不能になるとも限らないので、とりあえずここに採録しておく。
 銘文
  会津小鉄
 本名上坂仙吉、天保四年大阪ニ生レ、父ハ東国浪士ト聞クガソノ顔ヲ知ラズ。母モマタ、仙吉幼少ニシテ旅ニ死ス。
 少年ニシテ大阪ヲ捨テ江戸ヲ経テ京都ニ留マル。京ノ顔役大垣屋清八ニ見込マレ男ヲ売ル。
 文久二年会津藩主松平容保侯京都守護職トシテ兵ヲ率イテ当黒谷ニ本陣ヲ置クヤ其ノ知遇ヲ受ケ若年ニシテ元締トナル。会津侯ノ為亦新撰組ノ影ノ協力者トシテ活躍幕末動乱ノ京洛ノ地ニ侠名謳ワレ会津ノ小鉄ト呼ブ。
 蛤御門ノ変及伏見鳥羽ノ戦ニ兵糧方及戦死傷者ノ収容ノ任ニ就イテ参戦、蛤御門ノ変ニハ会津侯ヨリ感状ヲ授ル、特ニ伏見鳥羽ノ戦ニハ会津軍敗退スルヤ、其ノ戦死者ノ遺体ハ朝敵ノ汚名ノ元、世人ハ後難ヲ恐レ戦場ノ雨露ニ晒サレ、亦惨ニモ放置サレタルヲ配下ヲ動員シ死ヲ決シ捜索、収容、埋葬スルト言ウ美挙ガアル。
 明治十八年三月十九日洛北、北白河ニ歿ス。享年五十三才。
 当銘文ハ会津小鉄孫原田弘記之。願クバ会津小鉄ノ魂ヲ顕彰シ原田家ノ恒久ノ繁栄ヲ祈願シ此処ニ建之。
          昭和六十三年十二月吉日
            大阪 原田弘
 内容の大部分は、田村栄太郎の伝えるところと重なっている。しかし、黒谷の中間部屋に出入りしていたことをもって、松平容保の「知遇を受け」とするあたり、あるいは、禁門の変では「会津侯より感状を授かる」とあるあたりなどは、事実関係がどうだったものか。さらにいえば、「新選組の影の協力者として活躍」というくだりについては、なんとも複雑な言い回しと言わざるを得ない。そもそも新撰組を激動の時代に登場したヒーロー扱いするのには首肯できないし、新選組をチヤホヤするのなら同じ視点からアルカイダも評価してみろという意見のほうに共感するのだが、新撰組に対する評価は措くにしても、中間部屋のボスに過ぎなかった会津小鉄が、松平容保預かりと言う処遇になっていた新撰組と対等に近い扱いがなされていたとは思えない。仮にあったとしても、賭場に出入りする輩を通じて、噂ほどの情報を上げる程度の役回りだったろう。「影の協力者」とは、あまりにも大仰すぎはしないかと思うのである。
 ところで、「黄金魔井上馨」や「新撰組の影の協力者」といった枝葉末節に近い言い回しについては、文章を書いた人の立場が反映して面白いのだが、問題は会津墓地の一件である。田村栄太郎の著作では、おそらく意図的に避けられているのだろうと思うのだが、鳥羽伏見の戦いで命を落とした会津藩士の遺体を集めて黒谷に運んで一ヶ所に葬った・・・・・・いわゆる会津墓地の成り立ちに会津小鉄が関わっているのは、おおよそ間違いのないことだろう。広く言われている説によれば、賊軍兵として放置されていた遺骸を会津小鉄が手下のものに命じて集めさせた、ということである。詳しい事情を裏付ける史料はないので、その説が正しいかどうかには、なにも言えない。ただ面白い推測として高野澄の出している見解がある。『京都の謎』シリーズの幕末維新編のなかで開陳されている説で、戦場近くで身を潜めていた会津の敗残兵を手下にカモフラージュさせ、遺体を黒谷に運ぶという名目のもと、彼らを逃がすのに一役買って出たのではないかというものである。これもまた裏付けのない話だが、全く可能性のない話でもない。草莽の徒の人生たるもの、こと細かに史料で裏付けられることはほとんどない。だが、そのかわりさまざまな空想で膨らませることもできるのである。
 ちなみに、この鳥羽伏見の戦いに小鉄が従軍したのかということだが、この点はフィクションである。田村栄太郎の報告によれば、戦いの火ぶたが切られた慶応四(1868)年正月には、小鉄は大坂の牢獄にいたことになっている。戦闘が行われた一月四日に放免となっているのだが、少なくとも正式の形での従軍ではありえない。仮に娑婆で開戦のときを迎えたとしても、雑事をまかなう軍夫を統括するあたりの仕事になっていただろう。ただ正規の会津軍でなかっただけに、高野澄のカモフラージュ説にも信憑性が出てくるところでもある。
 現在、会津墓地を管理するのは西雲院である。その境内には、会津小鉄の大きな墓が建っている。墓石の裏に刻まれた日付は「明治廿三年四月」。墓の前に立つ別の石碑には「会津小鉄之墓 大正十五年六月十一日 大阪 野田○○吉建之」とある。明治になってから関西の大親分として名を轟かせていたことが推測される大きさの墓である。


(03.12.28 古城 悠)



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